思い出に残っている大切な恩師 ② 番外編
私の反抗期の引き金を引いてくれた先生のはなしです。
2年になり進路別のクラス分けになった。
担任はチルミル(仮称)中年男性教師。
いつも顔が不満に憑りつかれていて怒りっぽい先生。
このクラスはどういうわけか問題児が多かった(笑)
番長と呼ばれる不良グループ、制服のままパチンコ通いしちゃう男子
ほぼ不登校のヤンキー(でも成績は良い)などなど。
私はチルミルに最初から目をつけられていた。
「あの時、停学になっていれば良かったのに」
「俺は停学にしろって言ったんだ」
「退学でも良かったのに」と何度言われたか。
当時の担任がどうして私のような生徒をかばったのか
随分と根に持っていたようです。
番長たちはフルメイクをして授業中に教科書も出さないのに
私が遅刻してファンデーションだけ塗っているのを見ただけで
教室から引きずり出された。
石鹸で顔を洗わせられて職員室で怒鳴られた。
何を言われたのかは覚えていない。
番長たちのメイクの方が濃いじゃないかと言っても
「お前はそういうところが%$#()=〇%&#$」
職員室から見える校門。
晴れている空。
通いなれた通学路が真っすぐに伸びていた。
街路樹ってあんなにキレイだったかな?
教室に戻る許可をもらった私はヘアブラシとリップと財布しか入っていない
小さなバックを持って
隣の席にいる珍しく登校してきたヤンキーさんに「帰るね」と言った。
「私も」と言うとはじめて二人で帰った。
正確には無断早退した。
チルミルは職員室の窓から大声で「停学にしてやるー」「戻って来ーい」と叫んでいたが二人で無視して歩いた。
ヤンキーさんは見た目と違って面白い子で全然怖くなかった。
私の中学2年からくすぶっていた反抗心が花咲く(?)きっかけになったのは修学旅行での出来事だった。
自由行動で帰る時間になりタクシーを拾おうと待っていたら
半べそをかいた他の班の子たちに遭遇。
私たちが捕まえたタクシーを譲る事にした。
そのタクシーにあと2台呼んで欲しいと告げると一台はすぐに着たので
また半べその子たちを優先して私と友人は最後のタクシーに乗った。
10分の遅刻。
他の子にタクシーを譲ったこと、自分達は時間通りに帰れたはずだと言っても
チルミルは許してくれなかった。
しかも私だけ夜の自由行動ナシと告げられた。
他の子は誰も私を庇おうとはしなかった。
旅行カバンからタバコを出し旅館のベランダで過ごした。
親しい複数の友人に親戚用のお土産を頼んだが
賑やかに帰って来て私の顔を見た途端
「何買っていいのか分かんなくて」
「ごめん、時間なくて」
「忘れてた」と口々に言う。
最悪。
そこから私の反抗期が絶頂期を迎え
学校を休みがちになり、夜の街で遊び、成績は下がる一方。
アッパークラスだった私はみんなで馬鹿にしていたはずの
<補習室>と呼ばれる教室通いが決まった。
私は腹いせにチルミルのテストを白紙で提出する。
今思えばそれが何の反抗だったのかも分からないけど
また怒鳴られた私は学校を辞めようと考え始めた。
理不尽だとはじめて感じたのは
学校という小さな社会だった。
チルミルは学年主任とか教頭にもならないまま定年を迎え
60代で亡くなった。
私はその事を聞いても何も思わなかった。